小説『117+』(仮)第五話 「2005年1月12日 ―赤羽緋美子―」

結局のところ、耳の錯覚だったんだと思う。




後ろには誰もいなかったし、
そのまま何事もなく授業は始まって、何事もなく終わって、
そのまま帰宅。宿題やって、買ってきた漫画を読んで、
ご飯食べて、お風呂入って、就寝。


そのあと、同じ言葉が何度も耳に響くようなら、
私は自分の精神状態を疑わなければならなかっただろう。
しかし、あの時一度きり。
HRが始まった直後だけだ。
たぶん何かの聞き間違いだったんだろう。


次の日も、何事もなく始まった。
私はいつもどおり完璧に起きて、時間どおりに学校について、
昨日と同じようにアオバに叱られる。


「ああ、そういえばヒミコ!」
授業が始まる寸前に、アオバがこちらに呼びかける。
「あたし、今日部活ないの!」


アオバは、吹奏楽部に所属していた。
トロンボーン担当。
わが校は文化部に関してはあまり有力な部はなく、
ほとんどが同好会感覚のものだが
歴史の長い吹奏楽部は例外で、
春から夏は甲子園にコンクール、秋や冬も定期演奏会やらなんやらでやたらと忙しい部だった。


そのアオバが、「部活がない」と言っているのだ。


「何アオバ。あたしを誘ってんの?」
「バイトあるならあきらめるけど」
フフン。思わず笑いが漏れる。
「ま、アオバがどうしてもって言うなら、別にいいけど」


同級生のほかの女の子はどうなのか分からない。
けど、アオバは部活で、私は内緒のバイト(最近は中華料理屋の接客)で忙しくて
あまり友達と遊ぶ機会ってのは作れないのが現状だ。


だから、久しぶりに遊ぶとなると、二人は本気だ。
「別にいいけど」なんて気のないそぶりは全くの大ウソだ。
もちろんアオバも分かっている。


授業は4時10分に終了。
校門前にて相談。
「ボーリングとカラオケ、どっち行く?」


結果的に両方行くことになった。
最終の電車が10時半。アオバは部活のある日はいつもその電車で帰っているので問題ない。
私の親はあまり時間にうるさい方ではない。
だから10時半。タイムリミットは6時間20分。
まるで競争するかのように自転車を飛ばしてカラオケボックスに飛び込む。
とにかくテンションの高い曲を歌いまくる。


2時間ほどで、ボーリングに未練が出始める。
私はそうでもないが、アオバはかなりの熟練者だ。
どうでもいい話をして(地学の教師の鼻毛がどうとか、学食の牛丼に入ってるタレには何が使われているかとか)
けらけら笑いながら、しかし自転車をこぐ足だけはものすごい勢いで。


3ゲームほどで肩が痛くなってくる。
アオバはスコアが200を超えないことが大層心残りだったようだが
私の「ファミレスに行こう」という提案をしぶしぶ了承してくれた。


「ああ、忙しかった!」
「これじゃ、お休みになってないよ! 休みの日に疲れちゃったよ!」
アオバが実にうれしそうに不満を洩らす。
私も楽しい。楽しい時はドリンクバーからジュースが出るだけで楽しい。


「ちょっと、ヒミコ、コーヒーはホット!」
「ええ? じゃあ最初からそう言いなさいよ!」
「は? コーヒーって言ったら普通ホットでしょ! わかってよ!」
「うるさいな! じゃあ最初から自分で取ってくればいいでしょ?」

文面だけ見るとまるで喧嘩してるみたいだが、
台詞を交わしている間は常に馬鹿みたいに笑い続けている私たち。
アオバがものすごい勢いでコーヒーを取りに行っている。笑える。
その間にアオバのグラタンに手を伸ばす私。アオバが血相を変えて戻ってくる。楽しい。


平和だ。


なんとなく、笑いが途切れた。


「ねえ、ヒミコ」
私がミートソーススパゲッティを頬ばった瞬間、アオバが切り出した。
こいつ、私を笑わせてスパゲッティを吹かせる気だ。
急いで飲み下さないと。
「ちょっと、聞いてもらってもいい?」


アオバの様子に、笑わせる雰囲気はなかった。
私は口の動きを止めた。
アオバはメニューを見つめながら、鼻の頭を掻いている。




(この文章はフィクションです。
実際の人物、団体、地名とは一切関係がありません)