小説『117+』(仮)第三話 「2005年1月11日 ―赤羽緋美子―」

世の中には低血圧と呼ばれる人種が存在するようだ。
私にはわからない。



昨日は日付が変わるころにベットに入る。
朝の7時半に起きるつもりで就寝。
次の日は特に何もなかったかのように7時半に目が覚める。
15分単位で調節することもできる。目覚ましも一切必要ない。
起き抜けで体が鈍いということもない。


これは、友達の多くからうらやましがられる私の特性で、
私の特技だと思っている人も多い。
いや、確かに特技なのかもしれないが、
私はこの特技を手にするために特別な努力をしたわけでもないし、
特に自分を誇らしく思っているわけでもない。


ご飯を食べて、セーラー服に着替えて、歯を磨く。
無造作に首のあたりまで伸びてる髪を簡単に櫛で梳いて、8時に家を出る。
8時13分の電車に乗って二つ先の駅で下車。
8時29分。
歩いて大体10分くらい。8時40分。通っている高校に到着。
朝のHRが45分。五分前行動。実に模範的。我ながら優秀な生徒だ。




「しわ!」
教室に入ろうとした私の後ろから大きな声が響く。
私は別段驚かない。「おはよう」「こんにちわ」じゃなくて「しわ!」と言って挨拶する人間もいる。
ただそれだけのことだ。


「ほら、背中のあたりがしわになってる!」
同級生の大原青葉だ。確かに彼女のセーラー服には最小限のしわしかない。
上履きもまるで昨日買ってきたみたいにピカピカで、革の鞄にも色落ちひとつない。
長い髪もつやつや。いかにも大和撫子みたいな顔にもしみひとつなく、
かけている眼鏡にも曇りひとつなく、爪もきれいに手入れがしてある。
全てが新品の女だ。


「もう! リボンはずれてるし、髪ももっとちゃんと梳いて! ヒミコは何でこういう身だしなみができないの!?
ちゃんと朝は起きれるんでしょ!」
彼女がヒステリックを起こしながら私の服のしわをのばしたり、髪を梳いたり、セーラー服のリボンを直したりしてる間、
私はただボーッと突っ立っている。
「7時半に起きたら、ごはん食べるくらいしかできないんだもん」
「じゃあ7時に起きる!」


幸せな時間だ。


「もうヒミコはほっとけよ。そういう女なんだから」
また後ろから、今度は男の声。人を馬鹿にしたような。
白川琉太。これも同級生。人を小馬鹿にしたようなしゃべり方が好きな、やなやつ。
自分だって髪ぼさぼさで、学ランのボタン開けっ放しのくせに。
おまけに髪の色はプリンだし。

リュウタ! あんたもボタン止める!」
アオバはリュウタの方に行ってしまう。
「アオバー。こっちまだ終わってないよー」
「もう! 自分でなんとかしなさいよ!」
するとまた後ろから。
「そうだ。そのくらい自分で何とかしろ」
これもよく聞く声。


振り向くと、担任の花沢先生がもう教室に入ろうとしていた。
人を茶化したような、でもそれでいて優しさにあふれた笑みをこちらに向けている。
これだ。リュウタの奴にはこの優しさが足りないんだ。
「ヒミコはいい加減、アオバに頼るのをやめたらどうだ」
「違うよ先生。アオバが勝手に私の世話を焼いてるんだよ。
アオバは私の世話をするのが幸せなんだよ」
「お前、そこまではっきりと言い切れるんだな…」
先生はうれしそうに笑う。私も笑う。
ちょっと離れたところで、アオバはリュウタの学ランのボタンを止めようとしている。
リュウタは「これはおしゃれなんだよ!」と叫びながら抵抗している。


幸せな時間だ。


雲ひとつないいい天気。
ちょっと肌寒いけど、太陽が当たってるから十分気持ちいい気温。
けだるい授業が今日も始まる。


幸せな時間。





「エンカウント」


またしても後ろから声。


でも、今度は体を震わせる。
今度は聞きなれない声。今日初めて聞く声。


エンカウント?


私の後ろには、鞄を置く棚しかない。





(この文章はフィクションです。
実際の人物、団体、地名は一切関係ありません)